<第1章(2) | 第1章(4)> |
■第1章(3) 「何がそんなにおかしいわけ」 ようやく笑いがおさまって息をついたアンジュの目の前に、いつのまにかディーが立っていた。彼女の整った顔が、なぜか呆れているように見える。 そんなに長い間笑い続けていただろうかと視線を上げると、知らぬ間に選考が再開されていた。だが問題は特になさそうだ。アンジュはまあいいかと深く考えるのをやめにした。 と、その段になってようやく自分が注目を浴びていることに気がつく。なんとなく、ちらちらと見られているのである。しかしディエ=フライグに内定したディーに話しかけられたからだろうとひとり勝手に納得した。 神聖な選考会の最中に爆笑して不況を買ったとは露ほども思っていない。 「ちょっと聞いてる?」 「と、ごめんごめん。いやだって、まさかあいつがディエ=フライグだとは思ってなくてさ。俺って見る目ないと思ったらおかしくておかしくて」 「……あーそう」 なんとも気のない返事にも構わず、少し離れたところにある空いていた長椅子に座るとディーを呼び寄せた。勢いに流されたのかどうなのかはわからないが、従ったディーにアンジュは小声で喋り続ける。さすがにそこはわきまえているようだ。 「そうだ、俺アンジュ。ディー、よろしくな」 「ああうん、よろしく」 「んでいきなりなんだけど、この後の模擬試合一緒にやらないか? 俺、けっこー強いぜ」 「……模擬試合だから強さはあまり関係ないと思うけど。でもまあ、いいわよ」 「よっしゃ。すっげー楽しみ」 何か含みある言い方をしたディーだったが、了承の返事にアンジュは構わず小さくガッツポーズをした。もうすでにアンジュの頭の中は模擬試合のことでいっぱいだということが見て取れる。今までとは打って変わってそわそわし始めたのだからわかりやすいものだ。 これまで数多くの剣士やら傭兵やら盗賊やらと一戦を交えてきたアンジュだが、女の剣士はたいていが大柄だったし、他と言えばダガーを武器とする身軽な女盗賊くらいで、ディーとは全く違うタイプばかりだった。初めて出来る経験に今か今かと待ち遠しくて仕方がない。 ――しかも、相当腕が立つ相手。 そこまで考えてアンジュは今日一番の失敗に気づき、「あっ」と声を上げた。思わず軽く音を響かせてイスから立ち上がり腰を浮かせた。ディーだけでなく他のライグもぎょっとして振り返る。 「っと、ワリ」 軽く謝罪を述べてイスに座り直したアンジュは大きくため息をついた。 突然の行動に怪訝そうにディーが顔を覗き込む。 「何、どうかしたの?」 「せっかく手合わせ出来るのに、俺テキトーな剣しか持ってない」 「別にどんなものでも評価が変わるってことはないと思うけど?」 「だって、俺としてはその剣の持ち主と手合わせするチャンスなんだぜ? 別に今日じゃなくても出来るだろうけどさあ」 心底悔しそうに口を尖らせながらアンジュがちらりとディーを見る。 ディーは驚きに満ちた顔をしていた。それを見てアンジュがきょとんとしたが、すぐに得意げな表情へと変わる。 少しの間のあとディーの耳元に口を寄せ、彼女しか聞こえないほどの囁きで短い単語をぽつりと呟いた。 「フォルス」 ディーは何も言えぬままさらに大きく目を見開いた。そして探るようにアンジュを見つめる。だが当の本人は飄々とした笑顔を崩さず、にこにこと見つめ返している。 アドゥリア一と謳われている剣匠の名前であり銘の名をレンフォルといった。この剣匠にまつわる逸話から悪評まで数多く存在するが、武人にとってはそれらを差し引きしても一度は扱いたい至高の武器である。 その中でもフォルスという銘から名づけられた武具は、王へと献上されるほど最高峰に位置する特別な代物だった。世に10本と出回っていないと噂されるほど希少価値がある。しかも剣匠自身が認めた人物にしか売らないし作らないことでも有名だ。 特徴は柄にある。アドゥリアにおいて、ヴィグレイスに特別な加工を施して出来上がるレイスという金属を使えるのはレンフォルの工房のみ。太陽や月の光といった自然から与えられるライグを吸収し、イリエのように仄かに色付く金属は他に探してもレイスをおいて他にはない。 それを柄にしているのも当然レンフォル工房で造られたフォルスだけだ。 だがディーの持つ剣はその特徴がなかった。柄は何事もなく少し変わった金属の色合いを見せている。しかしアンジュはそれが確かにかのフォルスだと確信していた。 どうしてそんなものをディーが手にしているのか疑問に思わないでもない。レンフォル工房のもので一般の市場に出回っているものはバカみたいに高額だが、ちゃんと値がついている。しかしフォルスともなると値段があるはずもなく、入手方法など剣匠本人に頼む以外アンジュには検討もつかないのだから。 頼んだからといって造ってもらえるものでないことは、実はアンジュ自身よく知っていた。 だからそんなことよりも、かの有名な銘の剣を間近に見ることができたことの方が重要で、ディーが誰もわからないと思っていたであろう剣の銘を当てたことでもう満足していた。 その上、フォルスの持ち主と剣を合わせるチャンスがあるなんて。 すごい、よく気づいたわね――そんな言葉を期待していたアンジュだったが、黙り込んだままのディーは驚嘆どころか次第に剣呑な目つきへと変わっていく。 戸惑いを覚えたアンジュは、うろたえて少し後ろに退いた。 なにか怒らせるようなことを言っただろうか。珍しく考えを巡らせてみたものの、思いつくことはなにもなく困り果てる。 とりあえず首を傾げてみたアンジュにディーは低く押し殺した声を発した。 「私に近づいたのは何が目的? この剣? 答えて」 思いがけない言葉にアンジュはますます困惑した。 どうして自分が問い詰められているのかさっぱりわからない。アンジュにしてみれば、ただたんに驚かせようと思って言っただけなのだ。なのにディーは並のものならあっさりと怯んでしまうような威圧感を漂わせている。 「……」 「……」 ディーと対峙したままアンジュは色々考えた。 会ってからものの一時も経っていない。したことといえば挨拶と模擬試合の相手の約束を取り次ぎ、ディーが持っている剣の銘を当てただけ。 あっというまに自分に非はないという結論にたどりつく。 だが何か勘違いされているのは確かである。まずはそれを解消するかと、アンジュはディーの不穏な空気に構うことなく彼女にまっすぐ向き合った。 「別にその剣が欲しいなんて思ってないぜ?」 「そう言う人はごまんといる」 「そんなんじゃないんだけどなー」 「じゃあなんなの」 「俺はただたんにディーと手合わせ出来んのが楽しみなだけ。だからディーの言う目的が何なのかさっぱり検討もつかない」 「……」 「それに、いつか手に入れてやるとは思ってるけど人のものじゃ意味ないから絶対にしないよ俺は。それに、ぶんどるなんてことしたらフォル爺んとこ出入り禁止になっちまう」 「じゃあ」 強い声音で反論しようとしたディーの動きが止まる。今度は先ほどとは違い、しげしげとアンジュを見つめた。 「アンジュ、フォルのこと知ってるの?」 「知ってるけど。何年かにいっぺんは会ってるぜ? 剣は悔しいことにまだ交渉中」 何度かまばたきを繰り返したディー。その顔にはさきほどの疑うような表情はどこにもない。ようやく誤解を解くきっかけを見つけたアンジュは、安心させるようにもう一度にっこりと笑みを浮かべる。 しかし、ディーはすぐに顔を引き締めて念を押すようにアンジュに問いかけた。 「ほんとうに?」 「疑い深いなあ。んじゃなにかフォル爺のことで質問しろよ。それならどうだ」 「……じゃあ、フォルの一番好きなお酒は?」 意味ありげ視線を向けてくるディーに、にやりと自信たっぷりに告げた。 「絶対人には言わないけど、トゥアン。あの世界で一番まっずい酒」 当然アンジュの答えは正解だった。 偏屈で人のことを気にしないレンフォルが、こっそり人目から隠れるようにしていることがある。それはトゥアンという一般的には好まれない――平たく言うとアンジュの言うとおりまずい――酒を飲むことだった。ただし、人前では麦酒しか飲まないと言っているし、多くのものがそれを信じている。そのことを知っているのは、彼に長年付き合っている数人の弟子や仲間、ごく一部の親しい人しかいない。 次の瞬間、憑き物が落ちたかのようにがっくりと肩から力を抜いたディーは、長いため息をひとつついてアンジュを見上げた。 「疑って損した気がする。……よくよく考えたらそういう画策、出来そうにないわよね」 「え、なんだって?」 ディーの口の中だけで呟かれた後半部分のセリフは、アンジュの耳には届かなかったようだ。聞き返したものの「なんでもない」とあっさり流されてしまう。そしてディーは苦笑いを浮かべるのみ。 アンジュはなおも聞き出そうと思ったが、次いでディーが発した一言に口を閉ざした。 「疑って悪かったわ」 改まって謝られてアンジュは少しだけ戸惑った。それから軽く肩をすくめて素直に感想を漏らす。 「すげーびっくりしたよ。銘を当ててにらまれるなんて思っても見なかったしさあ」 「ちょっと、疑り深くなってたみたい」 後悔の色を見せたディーの視線を追うと、腰元にある剣に向かっていた。 忌々しげに剣を睨んでいるディーが可笑しくてしょうがない。 「こんなにすぐバレるんなら、これ持って来るのやめておけばよかった」 「銘までわかったのは俺くらいだと思うぜ? それっくらいつくりはレンフォルだなんてわからない。あいつらも、それがかなりの代物だと狙いをつけてただけじゃないかな。だとしても、今はそれどころじゃないだろ」 先ほどディーを注視していた傭兵たちをちらりと見やる。 アンジュの想像通り、先ほどとは違い敵愾心に燃えたまなざしを、隣に座るディーに向けていた。しかしただそれだけだった。あれだけのイリエを見たあとでは、剣への興味よりもライグとしてのプライドが刺激されたに違いない。 同じように彼らを伺ったディーに「な?」とウィンクする。 「……だよね。じゃあどうしてわかったの?」 「俺、実はそういうタイプのやつ一回だけ見たことあるんだ」 「見たことがある? そんなまさか」 ぺろりと舌を出して種明かしをしたアンジュに、ディーは耳を疑った。当然の反応だとアンジュは思った。レンフォルは誰かひとりのために創り上げた剣をおいそれと人に見せるような性格ではないからだ。だからこそ見せてもらったことがあることは、アンジュにとって自慢でもあるのだけれど。 「ウソは言ってないぞ。鞘だって別のだろ? フォルスだって気づかなかったら、さすがの俺だって刀身も見ずにその銘は当てらんないよ」 「は? 刀身みたら当てられるって言うの?」 「たぶん9割は当てるぜ? 俺、頭は悪いけど武具に関しての記憶力は誰にも負けないから」 「……」 絶句するディーを見て満足そうにしているアンジュは、明らかに嬉しそうだ。その様子に色々聞き出そうとしていたディーも呆れて目を細めた。 「俺ってすごくない?」 「あーすごいすごい」 「うわ、テキトー! ぜんっぜんすごいって思ってないだろ」 出会って一日ともたっていないのに、アンジュはディーに性格を見抜かれていた。こっそりと身体を丸めて会話し、調子に乗るアンジュを生返事で交わす様子はもう数年来の付き合いのようである。 それから二言三言、軽口の応酬を続けていると、突然ディーがびくりと身体を固まらせた。それに気づかず話し続けたアンジュも、自分の言葉に反応がなくなったことに疑問を抱き、我に返る。 一緒になって小声で話していたディーはまっすぐ前を向いてイスに座っているし、見回せば先ほど以上の視線が自分に集まっている。 「……あれ?」 何があったのかと思う間に、「アンジュ」と声がかかった。 聴き覚えがあった。抑揚が少なく低めのその声の持ち主、それは―― 「あ」 アンジュは話に夢中になっていて、今この場がどういうものなのかをすっかり失念していた。小声で話していたのはそのためだったことを思い出す。 顔を上げてみると予想通りセギがこちら向いていて、アンジュと視線がぶつかった。 「盛り上がっているところ失礼ですがあなたの番です」 慌てて立ち上がってセギの前へと進み出る。 アンジュが近づいてよく見ると、このセギという男が案外若いことを知った。落ち着き払って目の前に立つ神官でありディエ=フライグは三十代だと思っていた。アンジュより少し小さなセギの体躯は神官の服に包まれていてわからないが、おそらく相当鍛え上げられているのだろう。 蒼一色に見えた髪も、どことなく白く淡い色合いを持っている。瞳はまるで鮮血を結晶化したような赤。それは丁寧過ぎる口調からは考えられないほど毒気を放っていた。 だがセギからあふれ出ている近寄りがたい雰囲気はアンジュには効き目がないらしい。そんなことよりも初めて間近にディエ=フライグと対面していることに嬉しさを隠せなかった。 満面の笑顔のまま、目の前のヴィグレイスに伸ばそうとしていた手が止まる。 ぱちぱちとまばたきをしたアンジュが、不思議そうにセギへ問いかけた。 「あれ? そういえばなんで俺の名前知ってんの?」 「他の方は皆終わりましたので。残るあなたに声をかけたまでです」 特に何の感情も含まず事実のみを語るセギの言葉に唖然としなかったのはアンジュとディーくらいだった。 ――ディーに関しては唖然としなかっただけで、眉を顰めて頭痛のする額を押さえたのだが。 周りをものともしないアンジュとセギを見やり、盛大にため息をついた。 |
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