眠る記憶
大学生の夏休みは長い。 特にサークルやクラブ活動、バイトさえもしていないオレには普通の大学生の数倍はヒマだ。 今年に入るまではバイトをしていたが、その店が移転して遠くなったので辞めてしまった。 かと言って新しく何かを始める気にもならないくらい、今年の夏は暑い。 それに大学3年の夏休みといえば、就職活動の準備を始める大事な時期だ。と自分に言い訳しつつ、今日も家でのんびり過ごしている。 「あーぁ」 読んでいた雑誌にもそろそろ飽きたので、テレビを見るためにテーブルへと手を伸ばす。この体制でも届く位置にリモコンを置いたはず。手を左右に動かしてみても全くそれらしきものはない。 あいつか。 視線をテーブルに移すと、”いつの間にか登場したお客さま”のすぐ近くに上がっている。ソファーにいるオレとは正反対の位置へと勝手に移動させたらしい。 起き上がって取ればいいのだが、今日の朝まで友人と飲みに行っていたので酔いが残ってて動きたくない。 「ハナ、ちょっとテレビのリモコン取って」 カーペットに腰を下ろし熱心に何かを見ているハナは、オレの言葉にゆっくりと顔をあげる。 えっと・・・どうしてそんなに不機嫌な顔なわけ? ハナの顔はさっきまで起き上がるのすら拒否していたオレを、あっさりとイスへ腰掛けさせるくらいすごい。 睨みをきかせた顔のまま当然リモコンは放置でこちらに進んでくる。 「龍、コレ覚えてる?」 いきなり押し付けられたのは、どうやらアルバムのようだ。この状態じゃ表紙しか見えないのに、覚えてるも何もないだろう。 「このアルバムを覚えてるかって?」 思いっきり頭上からハナが睨んでいる視線を感じる。 そんな表情をされたって意味がわかんないんだから、対処のしようがないだろう。 「今可奈ちゃんが押し入れ整理してるでしょ? 奥から出てきたって見せてくれたの」 「へー。で、どうしてそんなに怒ってるわけ?」 怒りの原因を探すため、アルバムに視線を移す。表紙には、『龍・花凛小学2年生』と書いてある。 小学2年生時のケンカの怒りでも蘇ったのか? それとも写真のハナの顔に落書きでもしてたっけ? 恐る恐るページをめくると遠足や運動会などの学校行事や、旅行の写真がびっしりと挟んである。 このアルバムオレの家の押入れから出てきたのにタイトル通りほとんどが2人とも写っている。 こういうのを見ると、ハナとずいぶんと長い時間を一緒に過ごしてるんだな、と再確認させられる。 「ここ、ここを見て!」 めくっていたページが半分くらいに差し掛かった瞬間、ハナが真中に挟んである写真を指差した。 この写真・・・ブランコの後のだ。 「最低ーー。またそうやって笑うんだ」 指差された写真を見た瞬間思わず笑ってしまったオレに対して、ハナの怒りがさっきの3倍以上に膨れ上がったらしい。 「だって笑わせるために見せたとしか思えないだろーが」 笑いをこらえながら言ってみたものの、言い終わった途端にまた吹き出してしまった。 やばい、ハナの怒りがさらに倍増してる。 「酷い! これは心配する写真でしょ!」 頬を思いっきり膨らませて怒る顔がこの写真のハナが重なる。 小学生のようなリアクションするなよ。 その表情にお腹を抱えて笑ってしまう。あー二日酔いの頭に響く。 バタン! と大きな音をたててリビングのドアが閉められた。 あーいてて。二日酔いの人間に爆笑させるのも結構酷いと思うんだけどな。 しかも・・・この写真。 「この唇だぞ? 笑えって言ってるようなもんだろう」 泣きそうな顔のハナの横に、大爆笑で唇を指差しているオレが写っている。 なんかさっきのシチュエーションと似てるな。 お互いの前では子供の頃と行動があんまり変わらないな。幼馴染ってどこもそんなもんなのかな。 それにしても懐かしいな。 写真のハナが泣きそうなのは、13年後のオレが爆笑できるくらいの”タラコ唇”が原因だ。 今ではその唇の面影はないが、この写真の前後5日間はかなりのものだった。 ”タラコ唇”になってしまったのは、オレと遊んでいた時に公園のブランコから勢い余って落下したこ とが原因だ。 落下した先が公園の柔らかい芝の上だったことが幸いしてほとんど無傷に近かったが、ただ1つ唇だけは草によって切れてしまった。 切れた唇は血まみれだったけれど、すぐにかさぶたになった。けどそのせいで口がほとんど開かなくなってその後10日間ストローで食事していたんだっけ。 あ、そういえば本当は全治1週間だったのをオレがからかったせいで、ハナがいじけてかさぶたを取って伸びたんだった。 確かに・・・ちょっと酷いな。 でも泣きそうなハナを「記念」とかって写真に残した母さんと萌ちゃんも結構酷いだろ。 「オレだけ悪者になってるし」 写真に残るのはすっかり元気になって泣きそうな顔の出来るいつものハナだ。 だけど撮影していた母さん、萌ちゃんや一緒に写ってるオレはハナを見て笑えるまでに走り回ったり、本気で心配してたんだ。 まぁ、ブランコから落ちたショックで気を失っていたハナはその辺りの記憶がないから仕方ないけど。 ハナがのんびり気を失っている間にオレは母さんを呼びに家に戻り、それから救急車に乗って病院に行った。母さんから連絡をうけた萌ちゃんは、真っ青な顔で仕事場から病院にかけつけた。 あの日、医者から「軽い脳震盪」と診断されても意味がわからなかったオレは目が覚める瞬間まで本気で心配してた。 「ハナ!! ハナーーーー!!」 どうしよう、ハナが死んじゃったら・・・・。 オレがちゃんとお母さんや萌ちゃんの言うことを聞いていたら!! 「ちょっと、龍。そんなに心配しなくても大丈夫よ」 「けど、さっきなんて口から血流していたんだよ」 オレの頭を撫でてくれてる萌ちゃんの声は優しいけれどすごく辛い。オレがハナを止めていたらこんなことにはならなかった。 このままハナが一生目を覚まさなかったら、オレは・・・どうしたらいいんだろう。 「口からじゃなくて唇からよ。それにお医者さんも軽い脳震盪だから、すぐに目を覚ますって言ってたでしょ」 お母さんは何回も同じことを言うオレに少し呆れた顔でそう言う。けど「脳震盪」ってなんだよ。 すっごい大怪我なんじゃないの? って確かめたいけど、もし本当にそうだったらと思うと恐くて聞けない。 「ハナ! 死ぬなよ。オレもういじめたりしないから、絶対死ぬなよ!!」 「いじめたりしないから」って言ったわりにいまだに怒らせてるもんな。 元通りになるとあの時の気持ちなんてすぐにどっかに行ってしまったもんな。思ってたことはウソじゃないんだけど。 ま、子供ってそういうもんだ。思わず笑ってしまう。 「龍、ハナがいじけてるわよ」 横になりながらアルバムを眺めていたっていたオレに、母さんが非難めいた声で話しかけてきた。 「けどこれだよ。笑えって言ってるようなもんでしょ」 ソファーから体を起こして周りを見渡す。ハナの姿が見当たらない。 「ハナは?」 母さんと一緒にいると思いこんでたけど、そういえばさっきから気配を感じない。 「さっき”龍が謝るまで許してあげないって伝えて”って出て行ったわよ」 「あ、そう」 アルバムをテーブルに置いてソファーに仰向けになる。立ってオレを見下ろしている母さんは、とてつもなく意地悪い笑顔をしてる。 「なにその顔・・・」 「母さんねー。さっきハナに言っちゃった」 「・・・なにを?」 すごい嬉しそうな顔だな。ぜったいろくなことじゃない。 「ブランコのケガの時、ハナを病院まで連れて行ったでしょ?」 「そうだね」 「で、龍がハナの目が覚める直前まで大泣きしていたこと言っちゃったんだー」 大泣き・・・? ハナが目を覚ます直前まで? 「うそだ、オレ泣いてないよ?」 全然記憶にない。 脳震盪って言葉にハナが死んじゃう気がしてびびってたことは覚えてる。けど13年も前のことだし、正直自分の記憶にもあまり自信がない。 「泣いたじゃない。突然わんわん泣いて大変だったんだから」 「マジで?」 「あんたねー。ウソだと思うなら萌にでも聞いてみたら?」 「・・・信じる」 わざわざ萌ちゃんに確認するくらいに疑っているわけじゃないし。 「けど心配だったことは覚えてるんだけど・・・。泣くほどだったとは、オレも結構優しいやつだね」 オレの言葉に母さんは「自分で言ってるなら間違いないわ」と呆れた顔をした。そしてそういえば、と 不思議そうな顔で続けた。 「泣き止んだ後変なこと言ってたわ。”綺麗な女の人が辛そうな顔で泣いてて自分も同じだ”とかって意味のわからないこと」 「・・・なんだそれ」 母さんの言葉に思わず笑ってしまう。言っている意味が全くわからない。不思議少年か、オレは。 「知らないわよ。たぶん照れ隠しだとは思うんだけど、それにしても変な言い訳だからなんとなく覚えてたのよね」 「確かにずいぶん変な照れ隠しだ」 「でしょ? でもその後聞いても忘れた、とか言ってて結局なんことだかいまだにわからないの」 「ふーん」 なんとなく気になってアルバムに手を伸ばす。 「ダメだ。思い出せない」 写真を見たらちょっとは思い出すかと思ったけれど全く記憶が蘇ってこない。 まぁ、当然と言えば当然だよな。 「そりゃそうでしょ、あの直後でさえ忘れてたんだし。それに気が動転してて変なこと言ったのかもし れないし、ひょっとすると思い出したくないことかもしれないし」 「思い出したくないこと」って言葉がなんとなく蘇らない記憶にしっくりきた気がする。 ソファーから立ち上がり、アルバムを母さんに渡す。 「ハナのところに行くの?」 見ても思い出せない記憶よりも、いじけている隣の姫さまのご機嫌をとるのが先決だ。二日酔いもだいぶおさまったし、一人でぼんやりしてるのも飽きた。 「いじけてる姫さまをなぐさめに」 「自分でいじめておいてよく言う」 そうっすね、すみません。 母さんの呆れた表情に心の中で謝る。 「さっきケーキ買ってきたのよ。ハナの分もあるからついでに連れてきて。お茶用意して待ってる」 「了解」 玄関を開けるとクーラーの加護のない暑い世界。 マンションの廊下が外に面しているから仕方ないけど、じりじりと肌が焼かれる感じだ。 けど・・・これが自然だ。 夏は暑くて、冬は寒い。 人間の力でできるのは室内を快適な空間になるようにするくらいだ。 現段階では外では自然の力に逆らうことができない。 けれど人間は、自分の努力や学び得た力で発展させていくことができる。 当たり前だけどこれが人間だ。 特別な力はないけど自分で道を切り開けるのが人間だ。 ・・・ってあれ? なんでオレこんなこと考えてるんだ。 暑さで頭がおかしくなったかな。 「オレだよ、開けてください」 チャイムを鳴らし、インターフォンが通じたのを見越して話しかける。 『ごめんなさいは?』 インターフォン越しにもハッキリわかるくらいハナの声はトゲトゲしい。 「ごめんなさい」 モニターでハナが見てるのは、長い付き合いだから見えなくてもわかる。 手を顔の前で合わせ、謝罪を体全体で表してやった。 「よし、許す」 ドアが開いて笑顔のハナが目の前に現れる。 どうせとっくに機嫌なんて直っているのに、謝らない間はオレの前でだけ不機嫌が継続する。 オレには昔から厳しい。 「母さんがケーキあるから来いって」 「え! やったー。可奈ちゃんありがと」 1番近くにあるニュールを履き、急いで玄関を飛び出したハナは思いっきりつまずく。 なんとなくやりそうな予感がしていたから、簡単にハナを支えることができた。 「うわー。びっくりした! ありがと」 「どういたしまして。けど気をつけろよ。階段とか高い所で転んだら危ないからな」 ハナを立たせながらめずらしく真面目に説教をしたのに、張本人ははあまり気にしてないらしい。 鼻歌を歌いながら、玄関に鍵をかける。 「人の話聞いてんのか? もうしませんだろ?」 そのままオレの家に向かうハナにもう1度声をかける。もうブランコの時や、塔の時みたいな後悔をしたくないんだよ、こっちは。 ハナは振り返りさっきのオレのように顔の前で両手を合わせた。 「もうしません、誓いますー!」 ―――ごめ・・・さ。あな・・・そんなをさせたかった・・・い・・・―― 「龍? おーい龍ちゃん!!」 「え? なに?」 一瞬オレの腕の中にすごい綺麗な女の人が横たわっていたような。ハナ、じゃないよな。顔が全然違うし。 じゃあ白昼夢? それにしてはずいぶんリアルだった気が・・・。 ・・・そういえばさっきオレなんか変なこと考えなかったか? 「怒った? ちゃんと悔いあらためるから、許してください」 「悔い・・・」 改める・・・? そうだ、さっき後悔したくないって思ったんだ。 後悔したのはブランコからハナが落ちた時ともう1つ。もう1つ・・・何かあった気がしたけど。 なんだったっけ? 何かがひっかかっているのに。 「ちょっと、聞いてる? どうしたの?」 「・・・聞いてる」 ダメだ、全然思い出せない。というか、そもそもそんなことあったのか? 「龍?」 ハナが心配そうな、悲しい表情でオレを覗き込んだ。その顔がさっきは全然似てないと思った白昼夢の女の人に重なる。 「本当にごめんね。意地っ張りで」 別にハナは何もしてないのに、謝らせてしまった。 どうしてオレは白昼夢なんかに真剣に悩んでるんだ? 別に気にするようなことじゃないのに。 「別に、暑くてぼーっとしてただけ。ごめんな」 ハナの曇っていた表情が一気に晴天になる。 「二日酔いのせいじゃない? あーぁ、心配して損した」 くるりと向きを変えてオレの家のドアに向かって歩く。 「損ってなんだよ。酷いなー。あ、そうだ明日のこと覚えてるか?」 「明日って、何だっけ?」 玄関のドアを開けながら本気で考え込んでいる。すっかり忘れているんだな。 「就職相談、予約しただろ?」 「そうだった、すっかり忘れてた」 「大丈夫かよ」 「今思い出したから大丈夫だよ」 「そういう意味じゃないし」 と返事したオレの言葉を聞かないでハナはケーキが待っているリビングに走っていく。 子供の頃から変わらずハナはハナでしかない。 そしてオレも、朝井龍でしかない。 暑くて長い大学3年の夏休み。きっと今年も今までのようにハナと過ごして終わっていく。 再来年大学を卒業して、就職して、お互いの道が別々の方を向いても。それでもオレが望んでいたように。 望むことはたった1つ。 ここに・・・ずっとずっといたいんだ。 「ハナ! 死ぬなよ。オレもういじめたりしないから、絶対死ぬなよ!!」 ベッドで静かに目を閉じて眠っているハナを見て急に懐かしい気持ちになった。 なんでだろう、こんなこと初めてなのに前にもハナを心配したことがある気がする。 ずっとずっと昔。 こんな風に目を覚まさないハナを心配していた? 苦しくてどうしようもないくらいに、心配していたのか? ―― シオン・・・お願いだ・・・、お願いだ・・・二度としないと誓ってくれ・・・。――― 胸が苦しい。 この女の人はハナ? どうしてそんなに辛そうな表情をしているの? ――― ごめんなさい。あなたにそんな顔をさせたかったわけじゃないのに・・・――― この女の人が泣くと、どうしてだろうオレも悲しいんだ。 辛そうな表情をするとオレもすごく辛いんだ。 何かしてあげたいのに、何もできなくて。 胸が苦しくて、まぶたが熱くなってきて、体が震えるんだ。 「どうしたの龍。え、ちょっと泣いてるの?」 あれ、今の女の人は? 泣いてる? オレが? 萌ちゃんから指摘されて指で頬に触れた。 細い涙の跡が何本も頬にあって、さらに増えていく。 どうしてだろう。ハナが目を覚まさないことをあんなに心配していたのに今は安心してる。 ここにハナがいてくれていることがすごく嬉しい。 どうしてだろう、当たり前のことなのに。 普段と何も変わらないのに、どうして涙だけは止まらないんだろう。 「大丈夫よ。大丈夫、心配することないから」 抱きしめてくれた母さんの腕の中で、オレはますます涙が止まらなくなった。 あの女の人は一体誰なんだろう。 もう顔もわからなくなってしまったけれど、すごく悲しかったんだ。 どうして悲しくて辛かったのか、それはわからないけれどハナがここにいることがすごく嬉しいんだ。 奇跡みたいに感じていて、すごく幸せなんだ。 当たり前のことなのに、初めて心の底から願った。 「ここにずっとずっといたい」って。 |
Update:08.08.2005
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